September 30,

10月は、乳がんキャンペーン月間。エスティ ローダーでは、1992年に故エヴリン H. ローダーがピンクリボンをシンボルにこのキャンペーンを設立して以来、世界の人々に連帯を促し、乳がんのない世界を創るための意識向上を図る活動として、乳がんキャンペーンを行なっている。活動開始から30年になる2022年は「30年の絆。乳がんを終わらせるために」をテーマとし「乳がんを終わらせるための願い」を声で吹き込みSNSでシェアすると、乳がん研究や乳がんに関する知識教育の支援につながる「Pink Ribbon Voices」を展開。

日本の女性のがんで最も罹患数が多く、9人に1人がかかると言われている乳がん。初期の段階では、症状を感じることはほぼないために発見されづらい。早期発見ができれば治る望みがある病気であるからこそ、定期的な検査が重要とされている。

自分自身の「今」や「未来」に大きく関わる、私たちの体。人生やキャリアのプランを考えるとき、何かに挑戦したいと思ったとき、もしも病気と向き合うことになったとしたら?自分自身の、あらゆる可能性を大切にするために。今回は料理家であり、ご自身で魚の卸業を営む会社を経営し、子育てをされながら乳がんの闘病経験をオープンに伝えている栗原友さんにお話を伺った。

 

ー 料理家としてキャリアを積み重ねてきた30代の後半に、どうして魚を卸す事業を始められたのでしょう?まったく新しい世界に飛び込むことは、怖くなかったですか?

35歳の頃、料理家でありながら魚を捌けずに恥をかいたことから、築地で働くようになったんです。魚を捌けるようになるには、築地だ!と。そこで料理教室に行こうと思っていればまた違う人生だったのかもしれないのですが、築地で知り合った人と結婚することになり、すべての仕事を築地にシフトしました。そうじゃなかったら魚に特化した仕事はしていなかったんじゃないかな。それくらい人生の大きな転機でした。勇気が必要だったのはもちろん、もともと見栄っ張りだから何かを一からやることが気恥ずかしくて、誰にも知られたくなかったんですよ。こんな仕事がしたいんだと選んだわけではなく、何よりも「魚を捌けない自分が恥ずかしい」という思いが一番強かったですね。料理家として仕事をしているのに何で魚を捌けないんだって絶対思われているはずだ、って。

 

ー 実際に築地の世界に飛び込んでみて、どうでしたか?

辛かったです。立ち仕事は慣れているつもりでしたが、朝出勤して夕方に片付けをするまで座れないんです。もう、必死だった。怒られるのも怖かったし。市場にあるカートで何度も足を轢かれたり...あれね、実は意外と痛くないんですけど。でも怖かった反面、楽しかった。飛び込んだときはドキドキしたけれど、やっぱり新しいことを覚える時って楽しいじゃないですか。あとは美味しい!すぐに賄い係に任命されたのですが、魚料理なんて今まで滅多に作ってこなかったから。

 

ー ご自分の中で「料理家とはこうあるべき」といったイメージなどはあったのでしょうか?

ありましたね。化粧はしない、髪も染めない。白シャツにチノパンやデニムを履いて、清潔感が一番って。本当は派手なスタイルが好きだったけれど料理家の家に生まれたし、その道を行くんだったら、自分もそんなふりをしていた方がいいと思っていました。料理家を名乗ると、清潔感のある印象がないと仕事が来ないんです。特に、広告。最近は何年もこの髪色なのでお声かけをいただくこともありますが、変えたばかりの時は「髪がピンクですが、大丈夫ですか?」って聞くと「すみません、なかったことに」って何件も断られました。ネイルも可愛いものが大好きなのですが、外さなきゃいけない。例えば、撮影がある際にスタッフが「友さんのポリシーだから、手が映らないように撮影しますんで、ご心配なく」と言ってくれたりするのですが、悪いので外そうって。

 

ー 社会的に「料理家とはこうあるべき」というイメージが形成されていると感じますか?

それはすごくあると思う。やっぱり、食品を扱う手が真っ赤じゃない方がいいっていうイメージはあるじゃないですか。海外では、ネイルやタトゥーを楽しむ料理家の人なんていっぱいいるんですけど。日本も少しずつそうなればいいなって思うけれど、結構自分も保守的だから気にします。こうあるべき、というイメージが根付いている。だけど今はもう料理家としてというよりも、魚屋だから。だからメイクもネイルも楽しめているかなって思います。

 

ー 料理家としての自分と本来の自分のバランスを、どう保っていたのでしょう?今のスタイルになったきっかけはありますか?

やっぱり病気がきっかけですね。当時、料理家として清潔感をまとっている自分に少し疲れていたんです。でも、乳がんになって「私、これやりたいんじゃないのかも」って吹っ切れたんです。髪も抜けて人に会いたくなくなった頃に、ちょうど「会社経営が楽しいな」って思い始めて、自分の居場所は“料理家”としてだけじゃない、料理をする場は他にもあるなって思えた時、自動的に今のような自分の姿になりました。料理家としての仕事だけでやっていたら、メディアや広告に出る機会もある。でも私にとって、それは時に憂鬱だったんです。魚の世界で自分の料理を作ってみんなに食べてもらえる機会があればいいと思えた時、そっちが合っていたんですよね。

 

ー 乳がんがわかった時は新しい挑戦を始めて色んなステップを積まれている時期だったと思うのですが、どんな考えが浮かびましたか?

正直、特に驚くこともなかったんです。あまり自分の人生に期待してなくて、ただ日常の中で病気になった、というくらいの認識で。でも具合は悪いし全身の毛がなく、夏だったので暑くてカツラを被るのも面倒でした。友達には会っていたけれど、必要以上に人に言うことも大変だなって。たまにね、泣かれちゃったりとかするんです。心配してくれて嬉しいけれど、私は泣いてないよ、って。自分は冷静だけど、相手の反応で逆に自分自身が戸惑うこともありました。とりあえずそっと時が過ぎるのを待とうって思っていました。

 

ー その時、お仕事や子育てはどうされていたのでしょうか?

連載をやっていたのですが、抗がん剤が終わるまでの期間が長かったから3ヶ月分を一気に撮影しました。もう何もないまっさらな状態になろうと思って。娘も小さいけれど、私が死んでも娘はなんとか生きるだろうし、保険にも入っているからお金は残せる。あとはきっと、家族がなんとかしてくれるだろうって思っていました。「そんなこと言ったら、残された娘さんは...。」って言われたりするのですが、何とかなるでしょ、くらいに思っていて。私がどうなっても娘は娘の人生をちゃんと楽しく生きられるはず、と思っているんです。

 

ー 娘さんのことをひとりの個人として信じて、尊重されているように感じます。娘さんとのコミュニケーションで意識されていたことはありますか?

遺伝子検査で乳がんと卵巣がんのリスクが高いことがわかったのですが、ということは娘も病気になる可能性はある。もしものことがあった時には、娘にも準備しておいてあげたい。不安材料を取り除く準備くらいしかやれることはないのですが、自分がなった時の資料は全部取っておいて説明してあげられるようにしています。先生とも仲良く付き合っているから、きっとその先生たちが助けてくれるだろうな、と。たまに先生たちがお店に来てくれるのですがちゃんと挨拶させて、なんかあったらこの人たちが助けてくれるからね、って。日常的に言っているので、がんは人ごとじゃないって本人はうっすら感じていると思います。

 

ー 伝え続けてくれる周囲の存在って大事ですよね。私も実はがんを患っているのですが、母が乳がんで闘病をしていたので定期的に検診に行くよう言われ続けていて、半年に1度の検診時に、早期で見つかりました。病気の可能性は変えられない、だったら早く見つけることが大切だなと身をもって感じました。

本当にそうなんですよね。突然思春期を迎えた時に、自分もがんになるかもしれないって思うよりも、知っておいたほうがいい。彼女が色々なことを理解し始めた時、初めてがんに関する記事を読んだり、あなたも遺伝でリスクがあるよって人伝に聞くのは残酷じゃないですか。だったら、小さい頃から頻繁に聞かせて「あぁ、分かった分かった」くらいの感じでいて欲しいなって。自分で検査をする年齢になった時、そういえば子どもの頃からお母さんに口酸っぱく言われてたな、ってくらいの感覚でいてくれたら。もちろん賛否両論があるかもしれないですけど、私は今、そんなふうに娘に話しています。

 

ーご自身が闘病を経験した今、乳がんの発見や予防に関して思うことはありますか?

私の場合、たまたま日焼け用のオイルを塗っていた時に明らかにしこりがあることが分かったんです。それまでは全く意識もしていなかったし、今より15キロほど太っていたから。ちゃんと意識して触っていないとわからなかっただろうなと。予防で両胸を一緒に切除したのですが、胸を取ることで女性のシンボルがなくなるとか、そんな気持ちは一切なかった。女性らしさがなくなるとか、自分が女でなくなっちゃうかもっていう話も聞くけれど、私の場合は卵巣も取っちゃったので。子どもを育てて、用が済んだといった感じだったんです。今日、改めて傷を見たんですけど結構綺麗に治っているなって。胸に傷が入ることで二の足を踏んでいる方もいるかもしれないのですが、今の医学は進んでいる部分もあるよと。

 

ー がん患者であることを公表することに、なんらかのイメージがついてしまうのでは、といった心配はなかったですか?

一応、栗原はるみの娘であり、少しだけ料理人としてメディアに出ていたこと、たまたま新聞社でのインタビューがあったり、連載をやっていたことで、もう長生きできるか分からないけど、人生で一度くらい誰かのためになるようなことをしてみてもいいかもって、公表することにしたんです。最初は悩んで病院の先生にも相談して、公表するとどういうことが起こるか?を一緒に考えました。色んな人が寄ってくるよとか、子どもが差別されるかもしれないとか。先生の一番の心配は、遺伝子検査で私ががんのリスクが高いと公表したら娘がもし何かの病気になった時、周りの子に「あの子がんだよ」っていじめられないか、あとは保険に入れないのではないか。まだまだ色んな問題があるから、娘が成長していく未来では、そういった心配がない世の中になっているといいよねと話したんです。だから今、こういう活動をしています。

 

ー 9人に1人が乳がんになる、って結構な確率だと思うんです。栗原さんのように日常の中で自分の一部として向き合いながら生活されている方は実はいっぱいいるのではないかと。

いっぱいいますよ。昨日も子どもの学校で「私もがんなんです」って言われて、話を聞いたら同じ病院で。「じゃあ情報共有しようね」「病院の近くで美味しい昼ご飯教えて」とか。そうやって患者同士は明るく話せる時もあるけれど、患者じゃない人とは壁もありますよね。誰もが可能性があるのに、検査するのが怖いって言う人がやっぱり多い。もし自分ががんだったら怖いからって。逆に「がんだったら早く見つけられた方がいいじゃん」「早く見つかってよかったよね」って思えるようになるといいなと思うのですが。

 

ー がんという病気に対する「怖い」というイメージが、検査から足を遠ざけていることがあると感じますか?

私も、以前は死ぬ病気って思っていましたからね。今は大丈夫だけれど、発見当時は悪性度が高かったのもあって。先日、知り合いの方から「妻ががんになっちゃって」と相談されたんです。その方が病院で「今はがんって死ぬ病気じゃないんでしょ?」って聞いたら、怒られちゃったと。がんって、早期発見ができて治療すればすぐに死と直結する病気じゃないけれど、ほっといたら死ぬ病気だから。検査は絶対にした方がいい。進行は防げないですもんね。私ももっと早く自分ががんになるかもしれない可能性について分かっていれば、ステージ0や1で見つけられたかもしれない。もちろんステージ4で助かる人もいるし、がんにも色々な種類があるから個々人で違うけれど、早期発見ができるかどうか、それが重要だと感じます。

 

ー 子育てや仕事で忙しいと、自分の体が後回しになってしまう人も多いと思います。検査自体が怖い人もいると思うのですが、どうしたら皆が自分の体に向き合う機会が持てると思いますか?

本当にね。私の場合、一年さぼって見つかったからさぼったらダメなんですよ。でも自己負担の検査って高いじゃないですか。だから区や市町村の健診は大いに活用するべきだし、自分の体を知るための検査も、国にもっと気軽に安くできるようにしてほしいですね。婦人科に行くのが怖い人もいるだろうし、足を開いたり胸が痛むのが嫌なのもわかる。でも痛かったとしても、人生の中のほんの数秒だから。インフルエンザの予防接種も、痛いですよね。世間では、検査のイメージが悪いから。検査をして自分のことを知れば、人生プランをもうちょっと分かりやすく組めるっていう気がします。私は、長生きできないかもしれないなら、後悔しないようにあれこれやっておこう、と思えるようになった。自分の人生プランを立てるために、体のことを知ってよかったと思います。

 

ー 今後の夢や挑戦したいことはありますか?

そうですね、会社を大きくしたい。人を増やして事業も増やして、色んなことをやりたいなとは思います。夢は億万長者になることですね。でも、億万長者ってなんだろう(笑)。特別な何かはないけれど、日々、自分が思ったタイミングで好きなものを好きな時に買えて家族と一緒に美味しいものを食べて、という生活ができていたらいいなと思っています。

 

栗原友
料理家 / 株式会社クリトモ代表取締役

国内外のレストランへ鮮魚の卸売を行うほか、築地クリトモ商店にて毎週土曜に魚を使ったお惣菜の販売、魚食の啓蒙活動を行う。料理家としてレシピ本の執筆、コンサルティング、商品開発などを行う。

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